09/30/2020 …… notes
BLMと文芸作品をめぐる課題
BLM(Black Lives Matter)運動を背景に書かれたこの記事は、小説や映画が描いてきた人種表象を問い直す内容となっている。さらにいえば、芸術表現はある意味で長らく人種をめぐる偏見を免責されてきたといえるが、そうした風潮そのものを問いかえす時期にきていると考えることもできる。
アメリカ文学史を紐とけば、明確に奴隷制反対をうったえたハリエット・ビーチャー・ストウ 『アンクルトムの小屋』よりも白人少年が奴隷を嘲弄しているかのようにも読める『ハックルベリーフィンの冒険』のほうを高く評価してきたことに端を発する文学史正典論争がある。これにより、文学史の見直しがはかられ、女性作家や黒人作家、先住民文学を「歴史」から排除してきた文学史・大学カリキュラムは、PC(political correctness)の観点がある種、政治的に導入されてきた。
この記事で扱われている『風と共に去りぬ』『ミシシッピー・バーニング』で問題とされているのは、黒人を解放した白人(リンカン、FBI捜査官)こそが結局のところヒーロー扱いされている点である。その点、『アンクルトムの小屋』もリベラルな白人にさわりのいい単純な物語となっている。
むろん、PC的観点にそった人種をめぐる表現、いってみれば誰も文句をつけれらない正義でもって人種を描くことは、おそらく文学の使命ではない。かといって、人種的偏見を助長する表現は、おそらく今後受け入れられないことも事実である。文学だからといって不正義が許される時代は終わったと思われる。
では、表象における人種をどう考えるべきか。この問題をprescriptionで深めるために、ここでは、『現代思想』(vol. 48, no.13, 2020年10月臨時増刊号「総特集ぷラック・ライヴズ・マター」)における論点を整理しておきたい。
-Black Lives Matter自体は2012年2月10代トレイボン・マーティンの射殺事件に端を発し、2013年7月にSNS上でハッシュタグ付きで全米に広がったことに端を発している(五野井,40)
-2020年5月25日、ミネアポリスでの警官によるジョージ・フロイド殺害事件は、動画という形で可視化されたことが大きな契機となり、全米・全世界な運動になった。
-その点で、直接的には警察・刑務所へのアボリション(廃絶・「奴隷制反対」と同語)をめぐる議論につながっている。じっさい、警察予算が大幅に削減される見込みとなっている。
-警察権力の危険性は理解できるが、ポリスの力が失われることにともなう安全性の低下を懸念する意見はメディアや本特集でも抑圧されているように見える。
-この問題は、中長期的には「構造的レイシズム」(水嶋一憲,34)、「制度的人種主義」(南川,91)を解消する方向へ進めることが必要。
-「制度的人種主義」とは「行為を規定するものは、人々が無意識のままに依拠している背景規則であり、意識しない行動や判断が特定の人種的背景を持つ人々を不利な状況へと追い込む仕組み」のことである(南川,92)。
-南川のいう「無意識のままに依拠している背景規則」「意識しない行動や判断」は、ピエール・ブルデュー のいう「ハビトゥス」と通底するものである。アメリカ社会におけるゲットーについては『世界の悲惨』第I巻を参照。
表象の問題は、人々の無意識にうったえるものである。たかが映画、たかが言葉という見方はすべきではない。北條勝貴は「ブラック企業」という言葉の不適切さを指摘し、メディアや教育の現場でさえ、そうした問題意識をもたずに使い続けている現状を指摘し続けてきた。加えていえば、「美白」という美容関係で用いられてきた語もあるが、こちらは業界で問題意識が共有されつつあるようだ。かつては「肌色」という絵具もあったものだが、こちらも改善が進んでいる。
無意識による人種差別は、制度的人種主義と同じかそれ以上に根深いものであり、そうした無意識を意識化していく段階にきている。だからこそ言葉の問題を瑣末なものと考えるべきではない。
では、『ハックルベリーフィンの冒険』や『風と共に去りぬ』『ミシシッピー・バーニング』といった文藝作品とこれからの社会はどう向き合うべきなのか。prescriptionではこの問いについて、具体的な提案をしてみたい。(山本)

