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中曽根元首相合同葬問題を〈厚葬久喪〉批判から考える

10/20/2020 …… notes

中曽根元首相合同葬問題を〈厚葬久喪〉批判から考える

18日(日)、中曽根康弘元首相の内閣府・自由民主党合同葬儀が、国庫より9600万円を支出して行われた。この件に関しては、すでに多くの批判があり、リンク先の symptom でも、文科省による国公立教育機関への弔意表明要請へ触れて、一政党による国家の私物化であるとの所感を述べた。ここでは、そもそもの国葬の是非にも触れて、この問題を考える材料を提供しておきたい。

戦後に国葬令が廃止されたため、現在日本国には国葬の規定がなく、天皇の葬儀は、『皇室典範』第25条に基づく「大喪の礼」として行われる。ただし、首相のうちとくに功績の大きかった者には国葬に近い扱いがなされるようで、吉田茂の場合には例外的に国葬が斎行されたほか、佐藤栄作などの場合は内閣府・自由民主党の合同葬となった。今回の中曽根康弘に関しては、吉田・佐藤と並んで大勲位を得ている人物であり、内閣府としては、2人に準じた扱いにせざるをえなかったのだろう。しかし、COVID-19 の感染拡大により社会一般が疲弊し、国家の対策に疑問と批判が突きつけられているなかで敢行したのは、不審の感を拭えない。結局、国葬一般は近代国民国家のイデオロギー政策に過ぎないが、その本義に基づき〈国民の結束〉を促そうとしたのなら、現状の観測を怠った拙策以外の何ものでもなかろう。
国葬のイデオロギー的機能は、すでに古代国家に見出される。ことを葬礼一般に拡大すれば、列島では弥生時代の墳丘墓が起源で、そののちの古墳時代には、これがクニを経営する原理に昇華された。大化に薄葬令が施行され、古墳時代が終焉を迎えても、しかし喪葬を階層的ピラミッドの構築に利用する制度は、いまに至るまで残されている。儒教の〈厚葬久喪〉をひとつの起源とする考え方だが、そこに、現代的な意義を読み取ることは可能なのだろうか。〈厚葬久喪〉を批判した同じ中国古代の思想家・墨子を参照し、少しこの問題について考えてみたい。

墨子(墨翟)は諸子百家のひとりだが、その素性についてはよく分かっていない。いまに伝わる『墨子』は、弟子たちが彼の思想をまとめたものだが、小さな過ちが族滅や国家の廃亡に及ぶ苛酷な戦国時代にあって、一種の平和主義・博愛主義を説いたことで知られる。人間と他の動物を峻別する開発主義であり、個人が己の分際を弁えることで階級秩序を維持しようとする儒教とは、多くの点で対立する主張を持っていた ※1。問題のくだりは、現存する『墨子』の巻6 節葬篇下 25 に現れる。節葬篇上 23、同中 24 を欠いているため、議論の全体像は詳らかでないが、その主張は一貫しており、孝子・仁者の励行すべき富・衆・治の三務(貧者を富まし、人民を衆くし、刑政を治める)から、〈厚葬久喪〉の政治を批判している。いうまでもなく、〈厚葬〉とは身分に応じて葬礼の方法・規模を定め(殉殺を含む)、原則として鬼霊を厚く祀るもので、〈久喪〉とは、身分に応じて日常生活と切断した喪の期間を設定、これに長く服するものである。これらは当時の諸侯、士大夫らの常識であったと考えられるが、墨子はその順守が三務を妨げるとして、激しく非難している。すなわち〈厚葬久喪〉の政治は、大規模な墳墓の築造・葬礼の実施によって人・資財を浪費し、国家と個人を貧窮ならしめ、生業労働の切断によって人民を疲弊させ、病者や自殺者を増やし男女の交わりを断ち、社会の上下から倫理を奪い混乱をもたらすというのである。
例えば、現在に「墨守」の言葉として残る墨家思想の精髄、国家の非攻防衛においてはどうだろうか。これについては第7節に記載があるので、書き下しでみてみよう ※2

……是の故に凡そ大国の小国を攻めざる所以は、積委多く、城郭修まり、上下調和す、是の故に大国は之を攻むるを耆まず。積委無く、城郭修まらず、上下調和せず、是の故に大国は之を攻むるを耆む。今唯無厚葬久喪の者を以て政を為せば、国家は必ず貧しく、人民は必ず寡なく、刑政は必ず乱れん。若し苟しくも貧しくば、是れ以て積委を為す無し。若し苟しくも寡なくば、是れ城郭溝渠を修むる者寡なし。若し苟しくも乱るれば、是れ出戦すれば克たず、入りて守れば固からず。此れ大国の小国を攻むるを禁止せんことを求むるも、而ち既已に不可なり。

大国が小国を攻めない理由は、財政が豊かで、城郭が整備され、上下も和合していることであり、そうすれば、大国は好んで小国を侵さない。しかし逆に、蓄えがなく、城郭も不完全で、上下が反目していれば、大国は好機とばかりに小国を襲う。いまただ厚葬久喪の法に則って政治を行えば、国家は必ず貧しく、人民は必ず増えず、刑政は必ず乱れる。もし国家が貧しければ、財政を豊かにすることができない。もし人口が少ないと、城郭や堀を修繕する者も不足してしまう。もし刑政が乱れていれば、城郭を出て戦っても勝利を得られず、城郭に籠もって防衛しても堅固ではない。このような法で大国が小国を攻めることを禁止しようとしても、もとより不可能である。……明解な論理である。〈厚葬久喪〉を国権の拡大と解釈すれば、それは最終的に人民の疲弊に繋がり、国家の体力を奪うということになろう。現在日本政府が採っているような、外憂を強調し国権を強化する政治の未来を、一種予言しているようでもある。
そうした墨子が理想とする葬法は、尭・舜・禹の聖王3代が採ったという薄葬で、具体的には以下の要素からなる。

  1. 桐棺(朽ちやすい)の厚さは3寸で、身体が朽ちるまで保護するのには充分である。
  2. 死者に着せる衣類は3枚で、忌むべき屍を覆うには充分である。
  3. 埋穴は、下は地下の泉に届かず、上は臭気を漏らさない深さとする。
  4. 塚の広さは、耦耕の畝3つ分(3尺)とする。
  5. 死者を埋葬し終われば、生者は喪に服することなく生業に励み、お互い能力を尽くして助けあう。

中国宇宙の基本原理をなす〈3〉で整理されているが、埋葬という行為から死者のディスタンクシオンを除き、徹底した合理主義で解釈しなおした主張である。一見、生者の利益を優先するあまり死者に冷徹であるように誤解するが、第9節をみると、上記1〜4の葬法によって5が実現することを、死者の徳目とみなしていることが分かる。すなわち墨子は、3代の聖王が、このように葬られることで中華の平和を実現した、と述べているのである。

……昔者尭は北のかた八狄を教へ、道に死し、蛩山の陰に葬る。衣衾三領、穀木の棺、葛以て之を緘す。既に窆して後に哭し、埳を満たして封無く、已に葬りて、牛馬之に乗る。舜は西のかた七戎を教へ、道に死し、南己の市に葬る。衣衾三領、穀木の棺、葛以て之を緘す。已に葬りて、市人之に乗る。禹は東のかた九夷を教へ、道に死し、会稽の山に葬る。衣衾三領、桐棺三寸、葛以て之を緘す。之を絞れども合せず、之を道すれども埳せず。地を掘るの深さは、下は泉に及ぶこと毋く、上は臭を通ずること毋し。既に葬れば、余壌を其の上に収め、壟は参耕の若くし、則ち止む。若し此の三聖王の若きを以て之を観れば、則ち厚葬久喪は、果して聖王の道に非ず。故に三王は、皆な貴きこと天子と為り、富は天下を有つ。豈に財用の足らざるを憂へん哉、以て此の如き葬理の法を為す。

昔、尭は北方へ赴いて八狄を教化し、その途中で死んで、蛩山の北に葬られた。そのとき遺体に着せた衣類は3枚で、棺には穀木(質の悪い木材)を用い、葛の蔦で結わいた。棺を穴に下ろしてから哭泣の礼をなし、穴は塞ぐだけで土盛りはせず、埋葬を終えると、牛馬が何ごともなかったようにその上を歩いた。舜は西方へ赴いて七戎を教化し、その途中で死んで、南己の市に葬られた。そのとき遺体に着せた衣類は3枚で、棺には穀木を用い、葛の蔦で結わいた。埋葬を終えると、市で働く人びとが、何ごともなかったようにその上を歩いた。禹は東方へ赴いて九夷を教化し、その途中で死んで、会稽山に葬られた。そのとき遺体に着せた衣類は3枚で、棺には桐を用いわずか3寸の厚さにし、葛の蔦で結わいた。しかし、蔦は棺を結わえるには充分ではなかったし、墓所への道は通したが穴は設けなかった。棺を納めるのに地を掘ったが、下は地下水が浸潤するまでに至らず、上は臭気が漏れない程度の深さとした。棺を地下に据えると、余った土をその上にかけ、広さは耦耕の畝3つ分にして、作業を終えた。このような三聖王の事例に則って考えるなら、すなわち厚葬久喪の法は、本当に聖王の道ではありえない。3王は、みな尊貴なことは天子となり、富は天下を保持した。資財に不足はなかったのに、それでもこのような埋葬の方法を定めたのである。……どうだろうか。重要なのは、三聖王がすべて天子として東奔西走しているその最中に命を落とし、路傍に葬られたということである(なお夷狄の教化は、いわば中華思想に基づく同一化政策なので、それ自体に大きな問題があるが、ここでは別稿 ※3 に譲ってひとまず措く)。蛩山の北、南己の市、会稽山と、境界論的に適切な葬地が選ばれてはいても、墨子は同所が、人民の〈生活の場〉であったことを強調したいのである。彼らは天下を治めるために常に心身を酷使し、尊貴を誇らず、富を有しても自分のためには使わず、政務の途上で息絶え、人びとの生存の基盤そのものとなった。単に経済的な節約の問題だけではなく、人民が彼ら聖王の生き方を模範としたことで、天下国家が豊かに、平穏に保たれたと主張しているのである。

もちろん、古代中国の一思想を、そのまま現代の日本に当てはめるのは適切ではない。しかし過去の事象を〈歴史〉として把握したとき、それらはいずれも現在の選択肢を豊かに広げる役に立つ。なぜいま、20年も前に政界を退いた人物の葬儀を国費を投じて挙行し、しかも教育機関へ弔意表明を要請するなどの措置が採られるのか。政府は、どのような意図をもってこの政策を立案し、実行するに至ったのか。現代国民国家の持つ思想性も含め、墨子の〈厚葬久喪〉批判は、この点を考える参照材料となりうるのではなかろうか。——ところで、尭・舜・禹3代をいかに描くか、それによって自らの見解をどう正当化するかは、戦国時代の国家や思想家たちの、議論の争点のひとつだったと考えられる。しかし、ひとり墨家のみならず、当時の人びとがみな尭や舜を清貧の人として、禹を恪勤の人として想像したのは確からしい。それは彼らの奉仕した君主たちが、理想的な聖王とは隔絶した存在であったからかもしれない。彼我の差は遠くかけ離れているのか、それとも案外に近いものなのか。いずれにしろ、理想は未だ実現していないというべきだろう。(北條)


^※1……浅野裕一『古代中国の文明観―儒家・墨家・道家の論争―』(岩波新書/岩波書店、2005年)に詳しい。
^※2……テクストには、山田琢訳注『墨子(新釈漢文大系)』(明治書院、1975年)を用いた。なお、訓読や字句については多少の修正を加えている(以下同じ)。
^※3……拙稿「〈八紘〉概念と自民族中心主義―三原じゅん子参議院議員の発言に対して―」(『歴史評論』790、2016年)参照。

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